カンボジアの歴史

先史時代から独立まで

 

先史時代

 

紀元前4200年頃~紀元前後

いつ頃から現在のカンボジアの地に人が住み始 めたのか定かではありません。 最も古い人間の痕跡は、 カンボジア北西部ラアン・スピアンにある洞窟か ら発見された人間の生活の跡であり、 紀元前4200 年頃と推定されます。 また紀元前3000年頃には、 海岸近くに人が住んでいたと考えられています。 最 も古い遺跡は、 新石器時代のクバル・ロメアス遺 跡で、 紀元前3420 年頃にまでさかのぼります。

 

紀元前1500年頃から、サムロン・セン(トン レサップ湖東南湖岸) には現在のカンボジア人に 近い人々が居住していたとされます。 これらの人々 の人骨などが発見されており、彼らは杭の上に簡 単な住居を構えていたと考えられています。

 

前アンコール時代(紀元前後~802年) 

紀元前後から、インド人商人は、モンスーンを 利用してインドシナ半島南部 (現在のコーチシナ 地方)に来航し、交易活動を行っていました。 2世紀 頃には、インド文化の影響を受けた「扶南」が、 カンボジア南部のメコンデルタ地帯に建国され ました。 扶南は、 内陸部から集積された森林産品の集 散地として栄えつつ、 海外との交易により国家を 発展させていった。 特に、 扶南の外港オケオ (現 在のベトナム南部アンザン省) は、海のシルクロ ードの貿易中継地点にあたり、インド、中国、 そ して遠くローマ帝国との交流もありました。

 

5~6世紀になると、 オーストロアジア系諸 族に属するクメール人ですが、揺籃の地であるメコン 川中流域、 南ラオスのチャンパサック地方から、 インドシナ半島に徐々に南下を開始した。 その過 程で、「真臘」 へと発展しつつ、 版図を拡大して いきます。 7世紀に真臘は、インドシナ半島南部に存 在した扶南を併合し、首都を「イーシャーナプ ラ」 (現在のコンポントム州、 ソムボー・プレイ・ クック)に定めた。8世紀初頭、 真臘は 「水真臘」 と 「陸真臘」 に分裂し、一時的に国内 は混乱するが、802年、 ジャワから帰国したジャ ヤヴァルマン二世によって再統一されます。

 

アンコール時代 (802~1431年)

ジャヤヴァルマン二世は、 即位後、 アンコール 朝を創設した。 続くインドラヴァルマン一世は、首都を「ハリハラーラヤ」 (現在のロリュオス地域 の近郊 )に定めました。889年に即位したヤシ ョーヴァルマン一世は、アンコールの地を王都と 定め、小丘プノン・バケンを中心とした 約4km四方の大環濠都城を建造しました。 以後、都 は 「ヤショーダラプラ」 (「ヤショーヴァルマン王の 都城」の意味)と呼ばれ、 約550年間にわたり都 城と寺院が建築され続けました。 アンコール朝の隆盛 期は、王都をアンコール地域におき、 アンコー ル・ワット、バイヨンなどの大 石造寺院を建設していたこの時代でありました。

1177年、アンコール朝は、 勢力を伸長してきた 近隣の海洋貿易国家チャンパの軍に、王都アンコ ールを一時占領されますが、その後すぐにアンコー ルは回復し、 1181年頃には、 建寺王ジャヤヴァル マン七世が登場します。 ジャヤヴァルマン七世の統 治下では、空前の繁栄を極め、 インドシナ半島の 大部分に勢力を広げるほどの大王朝となりました。 王 は道路網を整備して街道に 121ヵ所の宿泊所をお 国内102ヵ所に病院を建てたといわれています。 これが、アンコール王朝の最盛期でありました。

 

しかし、たび重なる遠征や大寺院の建造などに よって、 ジャヤヴァルマン七世の死後、国力は急激 に衰退します。 1431年頃には、シャムのアユタヤ朝 アンコールを攻略され、王都アンコールは陥落 した。 流浪と苦難の時代が始まったのであります。

 

アンコール時代 (1431~1863年)

アンコール放棄以後、カンボジア王国は、王都 をスレイサントー、プノンペン、ロンヴァエク、 ウドンと、転々と移していきました。15世紀以降は、 西のシャム(アユタヤ朝、 バンコク朝)、 17世紀 以降は、東のベトナム (阮朝) に領土を徐々に釜 食されていきます。

 

16世紀中頃、 カンボジア王国は、ビルマとの 戦争で弱体化したアユタヤ朝に戦闘を仕掛けるこ ともありました。 しかしその後、シャムの巻き返しに より、カンボジア王室にはシャム王室の影響力が 強まっていきます。 同時に、 王家の内紛や地方官僚の離反などによって、王権は弱体化し、国力もます

 

ます衰退していきました。

18世紀後半以降、 シャムとベトナムの攻撃によって、カンボジア王国は国家滅亡の危機に陥ちりました。 1835~1840年には、アン・メイ女王が阮 朝ベトナムに行政権を奪われ、 1841年には国土 が併合されて、国王が国内に不在となりました。 1845 年にシャムとベトナムの妥協が成立し、 1847年、 アンドゥオン王が正式に即位すると、国内は一時 的に平和になります。しかし、実質的にはシャムとベ トナムの両国による隷属状態におかれていました。

 

フランス植民地時代(1863~1953年)

シャムとベトナムの二重属国状態を脱するため に、アンドゥオン王は1853年、 アジアに進出し ていたフランスへの接近を試みます。

 

1863年8月、 ノロドム王は、フランスと保護 国条約を結び、フランスの支配下に入りました。 続く 1884年協約の締結によって、フランスによる植 民地体制は強化されました。 1887年、 フランス領イ ンドシナ連邦の成立とともに、 インドシナ植民地 の一部に編入され、1953年に独立するまで、 フ ランスの支配を受け続けたのであります。

フランスは、植民地時代を通じて、王朝、王権、 仏教といったカンボジア固有の「伝統」を温存しました。 その一方で、 社会経済開発、 近代的教育制度など の導入を積極的には進めせんでした。 また他方で、 中国人移民やベトナム人労働者を受け入れ、カン ボジア人の代わりに、社会経済開発の担い手とし て利用していきました。この結果、 クメール人の民族意 識の形成は遅く、1930年代後半にならなければ本 格的な民族主義運動は開始されませんでした。

 

第2次世界大戦後、フランスからの脱植民地 化を目指し、 カンボジア独立運動の先頭に立った のは、1941年に19歳で即位したシアヌーク国王 でありました。 シアヌークはフランスとの交渉を積極 的に進めますが、部分的な自治権しか承認されず、 完全独立への道のりは平坦ではありませんでした。 1949 年11月、 フランスとの連合の枠内での限定的独 立を獲得しましたが、 司法権、 警察権、 軍事権などが フランスに残されていたために、真の独立とはい えませんでした。このため、国内ではシアヌークに対 する非難が起き、地方でベトミン (ベトナム独立 同盟)系ゲリラや反共勢力による活動が活発化す ると、 シアヌークは1953年2月、 「合法クーデ ター」 によって全権を掌握し、 フランスとの直接 交渉に乗り出します。

 

1953年4月以降、国際世論に訴えてフランス から譲歩を引き出し、同年11月9日、 ついに完 全独立を達成しました。

 

現代カンボジアの形成 (独立から 1993年総選挙~連立政権誕生まで)

 

シアヌーク時代 (1953~1970年) 独立を達成したシアヌーク国王は、 インド、中 国、フランスとの関係を重視しつつも、東西陣営 のどちらにも属さない非同盟中立として独自の路 線を歩む中立外交を推進しました。 1954年のジュネ ーブ会議以降、カンボジアでは、独立・平和維 持領土保全のための方策として、 非同盟の中立 主義が外交政策の基本方針となります。 シアヌークの 外交政策は、 一部から「綱渡り外交」 と揶揄され ました。 しかし中立外交は、 戦乱のインドシナ半島に おいて、ベトナム戦争の戦火をかぶらずに平和を 維持するための現実的な政策だったともいえます。 シアヌークは、 内政的には仏教社会主義(王制 社会主義)を唱えました。 仏教社会主義とアンコール 時代の王制との類似点を指摘して、王制と民主主 義、 社会主義は矛盾しない概念であると主張した のであります。 1955年、 シアヌークは、王位を父ス ラマリット殿下に譲り、退位しました。 その直後、国 民統合を目指し国家建設を推進する新体制とし て、 「人民社会主義共同体 (略称サンクム)」を結 成し、自ら総裁に就任しました。 サンクムは、国家体 制の支柱としてカンボジアの伝統である王制と仏 教を護持しつつ、一方で計画経済政策を導入する というものでありました。 しかし実際には、左右イデ オロギー勢力を内包した一種の国民運動のような 政治組織であり、しかもその実態は、 シアヌーク による独裁主義的政治運営が特徴でありました。

 

1960年代後半、 中国にならった自力更生によ る経済政策が失敗し、財政が困窮すると、サンク ム内における左右勢力の均衡も崩れてしまいました。 1970年3月、 右派ロン・ノル将軍によって、 外 遊中のシアヌークは国家元首を解任されます。 右派 の政権奪取はベトナム戦争のカンボジア領内への 拡大を招く結果となり、 カンボジアは戦乱に巻き 込まれていきました。

 

ロン・ノル時代から民主カンプチア 時代へ (1970~1979年)

 

ロン・ノル将軍のクーデター後、北京に亡命して いたシアヌークは、「カンプチア民族統一戦線」の 結成を宣言し、共産勢力クメール・ルージュと協力 することを表明しました。1970年以降、ベトナム戦争 はカンボジア国内にまで拡大され、1973年以降 はカンボジア人勢力同士による内戦も激化しました。 この結果、国内は混乱し、国土は疲弊していった。

1975年4月17日、クメール・ルージュを中心 としたカンプチア民族統一戦線がプノンペン入城を果たし、内戦は事実上終結した。しかし、政権 を握ったポル・ポト派は急進的な共産主義政策を 断行したために、国内は再び大混乱をきたしたの であります。

民主カンプチア政府 (ポル・ポト政権)の政治 についてはいまだに謎が多いです。毛沢東主義の影響 を受けたといわれるポル・ポト派は、プノンペン 入城直後、都市の無人化、農村への強制移住政 策を行います。さらに、市場・通貨の廃止、労農・政 治教育以外の学校教育の廃止、宗教活動の禁止、 サハコー(人民公社)の設置と集団生活化など、 従来の伝統的価値観や社会体系を無視した政策 を断行しました。これらの諸政策のために、カンボジ ア国内は混乱し、伝統的な社会システムは破壊さ れました。ポル・ポト政権下の3年8ヵ月間20日間は、カ ンボジア国民にとって、「精神的外傷」として、現在でも記憶に深く刻み込まれています。 また、ポル・ポト政権成立直後から、ベトナムとの対立が激化するようになり、1977年には大 規模な国境紛争へと発展していきました。1978年12 月下旬、ベトナム軍はカンボジア領内に侵攻し、 翌年1月に民主カンプチア政府はプノンペンを 放棄して、タイ国境の山岳地帯へと逃走した。同 時に、タイ国境地帯に大量のカンボジア 「難民」 が押し寄せ、1980年代を通じての「難民問題」の端緒となりました。

 

ベトナム軍の侵攻と 「カンボジア問 題」の発生(1979~1991年)

 

1979年1月7日、ベトナム軍に支援された 「カンプチア救国民族統一戦線」は、プノンペン を「解放」した。その直後、人民革命評議会議長 ヘン・サムリンが 「カンプチア人民共和国」(へ ン・サムリン政権)の樹立を宣言しました。

一方、タイ国境に逃れた民主カンプチア勢力 は、ゲリラ活動を展開しつつ、1982年7月には、 ソン・サン派、シアヌーク派とともに、反ベトナ ムの「民主カンプチア連合政府三派」を発足さ せ、ヘン・サムリン政権に対抗した。このため、 1982年以降のカンボジアには、タイ国境にあっ て中国や ASEAN (アセアン) などに支援された 民主カンプチア連合政府三派と、ソ連やベトナム などに支援されながらカンボジア全土を実効支配するカンプチア人民共和国というふたつの「国 家」が併存することとなりました。

1980 年代全体を通して、両政権による内戦は 長期化し、二重政権状態が継続されます。「カンボ ジア問題」は、東西対立に加えて、社会主義国家 間の対立が内戦の原因を複雑にし、さらに紛争解 決を困難にしていました。

1980 年代、ベトナム軍の駐留に反発した西側 諸国やASEAN などの支持によって、民主カンプ チア側が国連の議席を維持し続けた。そのため、 カンプチア人民共和国には西側諸国からの開発援 助も入らなかった。カンプチア人民共和国は、東 欧やベトナムなどの社会主義国からの乏しい援 助、NPO(民間非営利組織)からの支援などを もとに、国家再建に取り組んでいたのであります。

 

カンボジア和平への道のり (1991 ~1993年)

「カンボジア問題」の解決のために、1987年 12月、パリにおいて、紛争当事者同士であるシ アヌーク殿下(民主カンプチア連合政府三派)と フン・セン首相 (ヘン・サムリン政権)による直 接会談が、初めて実現しました。その後も、両者によ る話し合いは場所を変えて行われました。

一方、カンボジア和平実現のために、紛争当事 者と関係各国による国際会議も、1988年7月、 1989年2月、5月のジャカルタ非公式会談、7~ 8月のパリ会議と続けて開催され、和平が模索さ れた。しかし、紛争当事者間において、内戦終結 の最終合意にはいたらなかった。

ところが1989年以降、ソ連のペレストロイカ の進行や東欧社会主義諸国の崩壊により、冷戦が終結すると、東西対立も解消され、カンボジア をめぐる国際環境も急激に進展しました。特に、1990 年代に入り、「カンボジア問題」解決のための重 要な鍵を握る中国とベトナムとの間の関係改善 が、カンボジア和平実現に大きな影響を与えました。

1990年9月、ジャカルタ会議において、カン ボジア四派により「カンボジア最高国民評議会」 (SNC)のプノンペン設置案が合意されました。続く 1991年も、6月のジャカルタ、8月のパタヤ、9 月のニューヨークと会合は断続的に行われ、10 月23日のパリ会議へといたるのであります。

 

パリ和平協定の締結 (1991年)

1991年10月23日、パリ会議において、カンボ ジアの包括的和平の実現のために、「パリ和平協 定」が19 ヵ国の代表により調印されました。パリ和平 協定では、UNTAC (国連カンボジア暫定統治機 構)の設立の規定、カンボジア四派の軍隊の武装 動員解除と内戦の終結、停戦監視、タイ領内の難 民の帰還、行政分野の直接的な管理、人権状況の 監視、制憲議会選挙の実施などが規定されました。ま た、新政権の発足までの暫定期間中は、「カンボジ ア最高国民評議会」 (SNC) がカンボジアの主権を 体現する唯一の合法的機関とされました。

1991年11月14日、シアヌーク殿下が12年ぶりにカンボジアに帰還し、SNCが正式に発足し た。続いて、翌年3月15日にはUNTAC が誕生 し、1993年5月の選挙実施に向けて全国で活動 を開始したのであります。

 

UNTAC の活動と展開

UNTAC は、1992年3月から翌年9月までの 間、カンボジアの新政府樹立を支援するためにあ らゆる分野の協力を実施しました。

UNTAC の任務は、制憲議会選挙の実施を経 て、制憲議会による新憲法が発布され、立法議会 に移行し、新政権が発足するまでの暫定期間 (18 ヵ月)、SNC とともに、カンボジア紛争の政治的 解決と平和回復の役割を担うものとされました。

UNTAC は、7部門(行政部門、人権部門、選 挙部門、軍事部門、警察部門、難民帰還部門、 復旧・復興部門)から構成され、軍事要員約1万 5900人、文民警察・停戦監視要員約3600人、 行政担当・選挙監視要員約2000人の合計約2万 1500人にも及ぶ大規模な平和維持活動(PKO) でありました。

UNTAC が実際に展開した期間は、18ヵ月間 でありました。その活動は多岐にわたり、カンボジア 社会に少なからぬ影響を与えました。例えば、ラジオ 局の開設(ラジオ UNTACによる全国放送の開 始)、国連ボランティア活動の全国的な展開、選 挙キャンペーンの実施 (有権者登録と選挙方法の 教育など)、難民の本国帰還 (帰還場所について は、帰還者本人の自由選択)などは、カンボジア 社会の末端にまで影響を及ぼした活動でありました。 戦乱と社会主義一党独裁政権が長く続いたカン ボジアにおいて、これらの活動は市民の目に新鮮 に映ったのであります。

 

実際、UNTAC の活動期間中、カンボジア社会 新聞の発刊ラッシュ、自主的出版物の発行 増加など、表現の自由の兆候が現れ、情報量も格 段に増加した。さらに、結社の自由と新政党 (20 政党)の選挙への参加の実現、政治犯釈放の実 現、人権意識の萌芽など、多岐にわたる分野での 社会的変化が起きたのでありました。

 

他方、常時数万人の異民族がカンボジア全土に 展開しており、カンボジアの一般国民とは異なっ た生活をしていたことから、不和や軋轢が生じた ことも事実でありました。しかし、選挙準備過程にお ける有権者登録や選挙キャンペーン実施の成功に よって、制憲議会選挙においては、90%近くの 投票率をあげたのである。これは、有権者による ある程度の自由意思の表明がなされた結果とみら れ、選挙活動は成功したと評価されました。 確かに、UNTAC の目標のひとつであった各派の武装解除に失敗したことは事実であり、また、 必ずしも選挙後に中立的な政治環境ができあがっ たとは言い難い面もある。しかし一方で、選挙に は多数の政党が参加し、多くの国民が投票を行っ た。カンボジア社会に多元主義的の兆候が誕生し たことも事実なのであります。

 

新生「カンボジア王国」の誕生

 

1993年5月の制憲議会選挙の結果は大方の予 想に反して、FUNCINPEC党(独立・中立・平 和・協力のカンボジアのための国民統一戦線)が 人民党(CPP)に勝利した。議席数配分は、ラ ナリット殿下率いる FUNCINPEC党が58議席、 旧プノンペン政権の母体である人民党が51 議 席、仏教自由民主党(BLDP) 10議席、モリナ カ党(カンボジア民族解放運動) 1議席となり、 その後の政治運営にあたることになった。6月 14日、初の制憲議会が招集され、16日には新政 府樹立までの間、FUNCINPEC党と人民党の連 立を基礎とした暫定国民政府が成立しました。その 後、新政権樹立のための討議が続けられ、9月 23日には新憲法が公布された。この結果、1993 年9月24日、約23年ぶりに統一政権として、 シアヌーク国王を国家元首とする新生「カンボジ ア王国」が誕生したのであります。

 

連立政権による政治運営 (1993~ 1997年)

 

1993年の総選挙の結果を受け、FUNCINPEC 党と人民党による連立政権が成立しました。連立政権 発足当初、内政は比較的安定していましたが、1994 年に入ると政府内には亀裂が生じる。7月に人民 党のチャクラボン殿下を中心とした勢力によるク ーデター未遂事件が発生し、人民党内の権力闘争 が露呈した。10月には内閣改造により改革派の サム・ランシー蔵相が更迭され、シリヴット外相 も辞任するなど、連立政権の基盤を揺さぶるでき ごとが続きました。続く1995年には、6月にサム・ ランシーの国会追放、9月のソン・サン派集会へ の手榴弾投下事件、11月のフン・セン第二首相 暗殺未遂事件の首謀者であるとの嫌疑によるシリ ヴット殿下のフランス亡命など、政界を揺るがす 事件が続発し、両首相の確執が深まっていました。

1996年6月、ポル・ポト死亡説が流れ、クメ ール・ルージュ (以下KR) 内部の権力闘争が伝 えられました。8月に最高幹部のイエン・サリがKR から離脱し、政府に急接近すると、その後、ほか のKR 支配地域の兵士や民間人の大量投降も進 んだ。この結果、KRの分裂は決定的になり、弱体 化がますます進行したのであります。